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大学院生の日記
by eroyama-blog
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落ち着きのなさは自信のなさの表れなのか

八月1日:
手こずりつつも,なんとか課題を提出した.
っていうよりも,終わらせた,という意味合いが大きい.
レポート自体の課題内容は難しいわけではないが,与えられた主題の中で,自らが「何」に問題意識やイノベーションを生じさせるための仮説を見出せるかが判定できれば楽勝というもの.そして,それが,どのようなアイデアで,視点で,実現させ得るのかをビジネスモデルを構築して説得力のある案が構築できればよいのだ.

着手して四日もかかって,気になった主題を(2015年の日本,企業通貨,NPO)仮説もなくただただ本を読み進めて,なんとかまとめられる範疇に収まった.

一番の問題点は,その主題に対する仮説を構築しきれていないこと.それが全くないと文献をサーベイしつくして,何とか仮説か,論じる種を見つけるだけで終わってしまうのだ.
目的意識を持って,課題に当たって,仮説を建てるというのが一般論だと思われる.
しかし,目的意識が元々無いのに,当事者意識を立ち上げ,目的意識を持たせ,自ら主体的にそれについての課題が見つけ出せるか,は少々困難を極める.もともと自覚していないことを自覚させようとするのだから,そこには少々苦労が生じる.それだけ,多くの物事をスルーしながら生きているということであって,それは健全なのだろうけど,僕の志向としては何でも知りたい.問題意識が無いなら創造すればいいと思うから.そのために学問を学んできたのだから.
そのための学問は,問題解決をするための一つのツールにすぎないし,実際,僕はそう思っている.

課題がぐだぐだになって終わり,町田へ行ってナンパしようともくろむ.
一人,2人,3人ぐらい声掛けて,引っ掛かりそうもなく,テンションが上がらず地蔵気味.

最近地蔵気味というか,家に引き篭もって他者と対話してなかったから,すごいテンション低い,どうにかこうにかならないかと思い,コンビニで酒を買っては飲む.

そして,昨夜眠ってないせいか睡魔が襲ってきて,駅の便所でうとうと寝る.

サイトで知り合った?というか,メッセしている子とナンパでバンゲした子とメールして,誰かと気晴らしに会えないものかと執拗にその子らにアポを取る.
自分勝手だけど,そういう気分だったから仕方ない.それでいいって言ってくれる都合の良い子を僕は探していた.
町田で会って,軽く飲んだ.あってみて,予想通りかわいい子ではあった.でも,面倒な子でもあった.おれみたいにノリ悪いし,ピエロみたいなおれの振る舞いをバカにされた,というか指摘された.冷静に分析するのがすきみたいな子.でもそういうお前は何者だよ,とつっこみたいが,おれもおれなので,あまり意味の無い議論だろう.
僕が心を開いていないわけではないが,確かに相手はあまり興味ありそうな感じで話を聴いているわけではなかった.おれが,その子でもそうだけど.なんでかは分からないけど,本気さが足りないからだと思う.いつもそうだけど,自分が話していることに対して,本気度というか熱意というか,まじめというか,自分の論理をきちんと説明できてないからだろう.
それは,相手にも伝わるし,実際僕は,彼女をどうしたいというよりセックスしたかっただけだから,とはいえセックスは僕にとって切実な問題なのだけど,いいんだけど.
そういうことに応えてくれる人は,今の所いないのが残念だし,これからも現れることはそんなにはないだろう.
これは確率的な話なので,頑張ってみようと思う.

そう,僕は自分中心の生活を送っており,極めて自己中心的な生き方をしている人間である.一生沿うありたいというわけではなく,今の文脈上しかたなしにそうせざるを得なくなっている部分もある.

他者のために,何か役立ちたいということも,そういった特別なセッティングすることもなければ,他者にとって都合の良いことを積極的にやるという姿勢は,あまりなく,僕の弱みでもある.

おそらく,最近,僕が元気がない,テンションが上がらない,夢中になれる勉強や遊びに対するモチベーションの維持が困難になっている一要因ではなかろうか.
何か目標を達成した,成功したという印がない.創れてない,ということが原因だろうか.たぶん僕らは何かしらの功績や達成(感)を創り出すことによって一歩一歩成長していくのではないか.
何かしらのアウトプットを創るというのは,そういった行為の最たるものであろう.
いわく,力強く生きるための飴かもしれない.その飴がないと,鞭ばかりになって,へばってしまうのだろう.相当Mでもこれはキツイ.何かしら,達成感というご褒美が欲しいものだ.もちろん自らの努力による...ね.

他者に積極的にアプローチする尊敬すべき人達もいるが,そういった人はどうやって他者に開かれていったのだろうか.
考えれば考えるほど,自意識過剰に陥ってしまうループは抜けなければならないな,と思う.なぜって,それが自分のしたいこととたぶん一致はしない筈だから.

# by eroyama-blog | 2008-08-02 08:28

残余と情報処理では賄えないもの

情報の処理時代はある種の終わりを見た気がする。
PDCAをまわすこと、仮説 検証を繰り返すことは、それはもちろんだ。
しさし、その事自体をこなすことには、新たなる創造性は生まれない。

そんな楽なら、公教育にすべて経営学やロジカルシンキングの授業を入れればいいだけのこと。それが早いなら大学でも構わない。
大学側と企業がタッグをくんで資金とアイデア・ノウハウを交換条件にすればよい。
それによって、安定な雇用と、ビジネスに直結する能力も身に付き、学生側も企業側もメリットがあるだろう。
もちろん直接には生きないが、今よりは断然マシだ。

だが、みんながコンサルタントや評論家になってもらっても困るわけだ。
多様な業種、業界に通じるコンサルタントや評論家は必ず必要だ。
需要がなくなるわけもない。むしろ、複雑化し、高度に分化した社会には必ず、そういったブリッジを担う役割は必要になってくる。

だが、創造性はそんなブリッジを担う人間だけでは上手くいかない。
アインシュタインの相対論、ハイゼンベルグの不確実性、グラフ理論における諸理論、スケールフリー、スモールワールド、これらすべては原理的な学的な追求による功績である。これらには一切の商売は絡んでいない。もちろん間接的には絡んでいる。
そう、基礎研究においては、必ずしも、利益追求とか企業の論理が絡むわけではない。
多様な遊びや失敗、試行錯誤の積み重ねが、じっくりと取り組んだ基礎研究こそが、これれを生み出した。そこに必然性はあるのか。否、無い。これは偶然である。
ただ、偶然をひきよせるのはなにか。それは徹底低なコミットメントの末に見えてくるものではないかと思う。

現代の情報社会、ある程度のことは、素人でも「分かる」ようになってしまった。「理解」をしているわけではない。ただ端的に分かるのだ。
創造したわけではない。ここには、あまりにもショートカットがある。それがイケナイわけではない。要は、どんなに情報処理が上手になっても、それで賄えない、ショートカットできない部分があるからだ。
その部分を誰がどのように担うかを冷静に社会全体で認識すべきである。

皆がサラリーマンになってもしょうがないだろう。そういった部分はきちんとまかせるといった度量の深さを、この社会には期待したい。
排除ではなく、包摂とはそのことだろう。
ITとかコンサルとかに踊らされる時代はもう終わりだ。
マネジメントだの、コミュニケーションだのといった言葉尻であしらうな!!

# by eroyama-blog | 2008-07-22 02:18

再構築


コミットメントの条件

いつ、誰が、どこで、何に、なぜ、それにコミットメント(責任をともなった熱心な関わり)するのか.そして、どのように、か.

それを考えることは容易なようにも思われる.よく、5WIHを考えて問題解決しましょう、とは周知の事実であり、ある種の人々にとっては習慣になっているのかもしれない.

僕が主張することは、そういった問題解決のノウハウが重要で、必要なのは間違いないが、それをもたらす前提である、それに対する<強烈な>コミットメントをもたらす条件が何であるか、が一番重要であると考える.

フレームワークは重要である.思考の手がかりを与えるからだ.だが、フレームワーク自体を洗練させ、刷新させる、あるいは代替的なフレームワークを創出することには、既存のフレームワークは使えない.

なぜならば、イノベーションや偉大な発明というのは、既存のフレームワークでは捉えなれないことであるからだ.このことは、言葉の定義からしてトートロジーではある.だが、真なることが真である、というそのものを導き出す命題は、常に成立しうるだろうか?

問題は、真なることの内実である.真善美なるものがある一定の価値を前提にしている以上、この問題は容易には解けない.

だが、真善美ということの正当性や妥当性はともかく、それが、真であるといいうる根拠は明確に示されなければならない.
それが明らかにされない限りは、たとえ特定のフレームワーク内で命題が成立していても、その命題自体の真偽は定かではないということだ.

逆にいうと、真偽が定かではないものだからこそ、それを真のはかりにかけようとコミットすることも十分に道理に適った、有り得る態度である.

僕たちが求められているのは、フレームワークを疑うことでもなく、フレームワークに捉われることでもない.フレームワークにのりつつ、フレームワークを刷新し続ける、その態度こそ、<コミットメント>することこそ、それを可能たらしめる条件こそが重要ではないか、ということだ.

# by eroyama-blog | 2008-07-20 00:40